ある母の姿

 

私の母は今年91歳になります。8年程前から認知症を患い、2年前からは足の骨折で寝たきり状態になり、その過程で入退院を繰り返し、もうだめかなと思った時も何度かありましたが、何とか持ち直して今に至っています。しかし、先日、数か月前から問題になっていたペースメーカの不具合がとうとうどうしようもない状態にまできていると医師から告げられました。体の負担になる手術はこれ以上受けさせないという家族の決断の下、今できる治療を続けてもらうしかありません。

 

私はもうどう祈っていいかもわからず、ただただ母が不憫で涙しています。同時に、コロナ下で会うのもままならない母の今の思いはどこにあるのかを考えながら、ふと今までの母親としての母の在り方に思いを馳せました。

 

母は、特別何かに優れていたとか、高学歴とかであったわけでもなく、結婚してからはずっと専業主婦でした。私自身の結婚式を控えた数日前、母は私にぽつっと一言言いました。「私の結婚生活は一度も楽しいと思ったことはなかった。あんたは幸せになりね」と。母はずっと父の酒乱に苦しめられました。父は57歳の若さで胃癌で亡くなるまで、大酒を飲んでは母に対して暴言を吐き暴力を振い続けました。私と弟が小さかった時は、私たちを守るために、私たち幼子の手を引いて夜逃げし、点々と居場所を変える生活を強いられました。そんなある夜逃げの数日後、家に戻ったら、アパートの部屋の真ん中に父がまだ酒の酔いが覚めないまま、ポツンと座っているだけで、あとはもぬけの殻。母への腹いせに、酔った勢いで家財道具一切をタダ同然に売り払っていたのでした。母がなんとか家計を切り盛りして買ってくれていた私のピアノもありませんでした。私たちが大きくなってからは、真冬の夜中、コートもなしに、無理やり台所の勝手口から外に押し出され、外で凍えている母を、父が寝入った後に中にいれてあげるのが私の役割でした。そんな時、私は何度か母に言いました「もう、離婚していいよ」と。

 

離婚を考えたことはあるでしょう。しかし、結局は「仕方ないね」とその境遇を受け入れていました。私は今、この母の離婚しないという決断は、子どもの私にとっては幸いだったなと感じています。確かに娘として父との葛藤は随分あり、成長するにつれて恐れから憎しみに変わっていきました。でも今思えば、そんな家庭環境があったからこそ、鍛えられ、アメリカ留学を含む様々なチャレンジに向かっていける意志の強さが培われたと思います。そして末期癌で入院していた父の最後の看病を私がすることになり、日々弱っていく父を前にして、人間の一生ってなんだろう、死後の世界ってあるのだろうかなどの自問をしながら、いつの間にか、父をあるがままに受け入れようという気持ちになっていました。

 

また、母は、いつも頑張っている私のことを応援してくれて、誇りに思っていてくれました。自分のことで私を煩わせるのでなく、まずは、私の願いの達成を優先してくれました。アメリカ留学も、ほとんど資金がないまま、大学の指導教官の家族が好意で無償の部屋を与えてくれていましたが、あるクリスマスに、母が大きなりっぱな木箱の博多人形セットを家族の人数分5つ、どかんと送ってくれた時は本当にびっくりしました。肩身の狭い思いをしているであろう娘のことを思ってのことでした。後に、シンガポール人との結婚で、第一子を設けるという時、始めて海外に出る旅でしたがシンガポールまで来てくれ、それから10年、英語も全くだめ、暑いのが苦手なのに、常夏のシンガポールに一緒に住んでくれて、第二子の子育てまで手伝ってくれました。弟に子供が生まれた時、日本に帰りましたが、その後も、私の仕事の活躍を楽しみにしてくれ、その一つであるNHKラジオの零時過ぎの番組にレギュラーで出ていた時は、早寝の母は、目覚ましをかけて、必ず聞いてくれていました。そして、10年前、30数年海外生活をした後、日本に帰国することになったと時、喜んでくれるかと思ったら、今ごろ日本に帰ってきても私が苦労するのではないかと、弟に心配そうに話していたそうです。

 

私だったら、酒乱の夫に苦しめられ続けたら、耐えることはできなかったでしょう。私自身の子育ては、自分のやりたい仕事と常に天秤にかけるようで、夫やそれこそ母の支えがあって、やっとのこさで乗り越えられたと思います。

 

母は偉大だったなと思います。自分の境遇に逆らうことより、淡々と受け入れ、その中で、家族を守り、子どもの幸せを願い、自分ができることを躊躇せずやり、サポートしてくれました。今の私があるのは、この母の忍耐、行動力、そして愛があってのことだなとつくづく思うのです。お母さん、ありがとう。

 

Throb Yumiko